ナイトフライト(1)
1 記憶
遠くから、音が聞こえた気がした。
なにかが破裂するような、空気を振るわす音が。
伊佐美練は足を止めて、辺りを見回した。
九時すぎということもあって、周りは街灯の灯りだけで暗い。
練の通っている進学塾の帰りは、いつもこのぐらいの時間になる。だけど、こんな音を聞いたのは、初めてだった。
練はあらためて、四方に目を向けた。
猫のもらい手を探す、チラシの貼られた電信柱、わずかな動作音を鳴らす、自動販売機。固く閉ざされた家の門。練の見る限り、見なれた住宅街に変化はなかった。
練は小さく息を吐き、歩き出す。
塾の試験とかで神経質になってたかな。
中学に上がってから、練の勉強量は格段に増えた。学校でもそうだし、新しく入った塾も、生徒同士を競い合わせるやり方で、気が抜けなかった。小学生のころも、毎日のように塾に通っていたけれど、遊ぶ時間があった。それが今は、学校と家、家と塾の往復がほとんどだ。おかげで、学校でも塾でもトップクラスの成績だった。
そんな生活自体にも疑問を感じてはいるけれど、それ以上に、生活に順応してしまう自分が、練は嫌だった。
友達と放課後遊んだり、意味もなくしゃべったり、メールしたり、そんな生活にあこがれなくなってきている。
ただくり返される生活に飽きていた。
「まあ、そうはいっても、今の生活を投げ出せるわけじゃないんだけど」
そう練が、苦笑まじりにつぶやいた直後だった。
唸るような轟音が鳴り響き、練から他のすべての音をうばった。
体の芯がふるえ、宙に浮かんでいるような錯覚にとらわれる。
なにが起きたのか、まるでわからない。
音のすさまじさに、練はめまいがして足がふらつき、その場でしゃがみこんだ。
反射的に両耳を痛いくらいふさぎ、両目を固く閉じる。
それでも全身をふるわす音は、練をつらぬいた。
もうだめだ。
練の意識が遠のき始めたころ、前触れもなく音が止んだ。
鳴り始めたのも突然なら、鳴り終わるのも突然だった。
練はしばらくは耳から手をどけることも、目を開けることもできなかった。体が硬直してしまっていた。
一分か二分か、それぐらいして練は目を開けた。耳からも手をどける。まだ耳鳴りはしていたが、遠くで犬が鳴くのが聞こえ、ほっとする。鼓膜はやぶれていない。
そんなことを気にしなければいけないような、ものすごい音だった。爆発音のように練には聞こえたけれど、それにしては爆風のようなものは感じなかった。
じゃあ、いったいなにが起きたのか。
練はさっきと同じように周りを見回した。
あれだけの音が鳴る原因といえば、ガスが爆発したとか、工場で薬品が爆発したとか、そんなことぐらいしか思い浮かばない。でも、それなら街は大騒ぎになっていいはずだ。
「誰も出てこない……」
練は思わずつぶやいた。
住宅街の家のドアは固く閉じられたままだ。
今の音は、家にいたって聞こえたはずだ。あの音を聞いて、外が気にならないわけがない。
それなのに、通りには人影一つ見当たらなかった。
練は自分の頬をつねってみた。痛い。夢ではない。
だとすれば、今の音は自分にだけ聞こえた?
一瞬その考えが浮かんで、あわてて首を横に振った。
もし自分にだけ聞こえたのだとすれば、それは練の体に問題があるってことだ。そんなこと考えたくない。
練は気を取り直して、もう一度辺りを見た。なにか変化があるはずだ、そう信じて。
そして、その変化はあっさりと見つかった。
左ななめ前の家にあった車の色が、赤から黒に変わっていた。
「まさか……見間違えたかな」
乾いた笑い声が出た。
あわてて他にも視線を走らせると、記憶との違いがいくつも出てきた。表札の名前、自動販売機のメーカー、家の窓の位置、電信柱に貼られたチラシ……まるで間違い探しだ。
ただ普通の間違い探しと違うのは、正しいとする答えが練の頭の中にしかないってことだ。練が勘違いして、違う道と記憶が混じっているだけかもしれない。
さっき、不可解な体験をしたばかりなんだ。記憶が混乱していても、おかしくはない。
練は自分に言い聞かせて、とにかく家に帰ることにした。
幸いなことに、道順は練がおぼえている通りだった。途中、店の名前や家の表札、壁の色など記憶と違うものが目についたが、気にしないことにした。
とにかく家に着けばどうにかなる。
その一心で練は自宅まで早足で向かった。
記憶の中の、最後の道を右に曲がり、練は自宅が見えるところまで来たら、走り出した。
息を切らして自宅の門の前に立つ。記憶と違う点はそんなに多くはない。そのことにほっとしたのも、長くはなかった。練は表札を見て、ぼうぜんとした。
表札には、『佐々木』と書かれていた。
練の名字は伊佐美だ。練の記憶でも、ここには伊佐美と書かれていなければおかしかった。
意味がわからなかった。自分はどうにかなってしまったのだろうか。
インターホンを押そうと伸ばした人差し指が、空中でふるえた。
押せなかった。もし押して、知らない人が出てきたら、練はどこへ行けばいいのだろうか。
記憶と少しだけ、だけど確実に違う世界。
練は家の前からはなれ、歩き出した。
とにかく状況を冷静に把握したかった。そのために一度落ち着く場所が必要だった。
五分ほど歩いたところにある公園のベンチに、練は腰を下ろした。
名前こそ記憶と違ったけれど、練が小学生のころ、よく来た公園だった。中学生になってからは、来たのは初めてかもしれない。
人のいない公園で、灯りに照らされたベンチにすわって、練は考えた。
あの轟音はなんだったのか?
どうして、轟音の後も人は家から出てこないのか?
なぜ練の記憶と街並みが違うのか?
自宅の表札がどうして『佐々木』になっているのか?
とりあえず、問題を四つにしぼった。
最初の二つの問いには、練だけにしかあの音が聞こえなかった、という答えが考えられる。なんで練だけに聞こえたのか、という問いが今度は生まれるが、それは今は考えないことにするしかない。
だが、残りの二つの問いは答えようがなかった。練が音のせいで、一時的に記憶が混乱している。そう考えることもできる。だけど、自宅の表札の問題はそれでは解決しない。
まさか、自宅の場所すら忘れてしまったのだろうか。そうだとすれば、かなり深刻な記憶障害ってことになる。電話で救急車でも呼んだほうがいい。でも、そうじゃない気が練はしていた。理由はわからないけれど、自分のこの記憶が間違っているとは思えなかった。今だって、こんなに理路整然と考えることができているのだ。
練は思案の末、学校に行ってみることにした。
自分の記憶が正しいかどうか確認するためだ。自宅以外で一番確かな記憶といえば、毎日通っている中学校しかない。一年以上通った学校だ。もしこれが記憶と違っていれば、警察か救急車を呼ぶしか練には方法がなかった。
練は立ち上がり、公園を出た。
記憶の通り、学校に足を向ける。途中の小さな記憶の違いは、もう気にならなかった。ただ、行く先の学校が記憶のままの姿で存在していてくれることだけを祈った。
十分ほど歩くと、遠くにフェンスで囲まれた敷地が見えてきた。記憶にある学校にもフェンスはある。校門が見えてきた。薄く明かりがこぼれていた。まだ誰かいるのだろうか。
そう考えた直後、足が止まった。
校門は確かにあったが、記憶にあるものより、はるかに大きく、その奥にある校舎のシルエットも記憶とまるで違っていた。まるで倉庫のような建物に変わっていた。
「なんで……」
練は唇をかみしめながら、校門まで走った。
鉄の門に駆け寄ろうとして、練は腕を脇から出てきた手につかまれた。
驚いて顔を上げると、練の左側に警備員のような黒い制服を来た男が立っていた。体ががっちりとしていて、一六〇センチある練より、はるかに高い。
「なにをしている」
感情のおさえたような声で、警備員の男が言った。
練は相手の表情を読もうとしたが、怒っているのかどうかもわからなかった。ただ、世界がおかしくなってしまってから、初めて人と話せたことで気がゆるんだ。
「ここ、学校ですよね?」
腕をつかまれたまま、練はきいた。
「ああ、その通りだが……。君、なんで泣いている?」
「えっ?」
気づいたら、練の頬に涙が伝っていた。
人前で泣いたのなんて、いつぶりだろう。はずかしいな、くそっ。
心の中で悪態をつきながら、練はつかまれていない手で、涙をぬぐう。
なにか言いつくろうと思ったが、それより先に首筋に軽い衝撃を受けた。
次の瞬間、練の意識は暗闇の中に落ちていた。
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