第2回 わかやすさ、その危うさ(2)
以前、同じタイトルで書いたのだけれど、どうにも書き足りないなぁ、とずっと思っていました。
いつか書き足そうと思いつつ、時間が過ぎてしまったので、改めて。
前回、児童文学がわかりやすさというものを、存在として背負っている、というようなことを書きました。なのですが、タイトルの「その危うさ」の部分を書けませんでした。
書けない、というのは、記事を書いていたときの時間的な問題と、自分の中で未消化だから、という両面で書けなかったわけですが。
今でも、よくわかっていない気もします。だから、書きながら整理するつもりです。
なんで危ういのか。これは説明がいらない気もします。
わかりやすい、ということは、全部もしくは、大部分がわかってしまう、ということです。これは、何事にも当てはまると思いますが、プラス面よりマイナス面が大きいことが多いのではないでしょうか。
わかりやすい、ということはとても危ういことです。本当にわかっているのかどうか、見極めることを中止させてしまう可能性があるから。わかった気にさせてしまう。考える余地を少なくする、ということにつながりやすい、と思います。
1〜10までわかりやすく提示されたとき、人は理解した気になります。でも、実はそれは自分の考えを入れる余地がない、ということも示しています。
3〜8まで提示されたとき、人は1と2で何があったか想像し、9,10で何が起こったのか考えます。そこには1、2、9、10の四つの余地が残されています。
その違いは大きいと思うのです。でも、それが具体的にどういう差を生み、また、わかりやすさを望むというのは、どういうことなのか、そこまでの考えがまとまっていません。ただ、わかりやすさの意識的なコントロールは必要なのだろう、と思います。
錯綜したままの文章で、自分でも読みにくいな、と思いますが、思考の軌跡として残しておきます。また、次に考える機会があることを期待して。
2006-09-29 21:20
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